イスラム国は宗教の絶対性が終焉したその地点から出発した「ナショナリズム」を基盤としている。彼らが言う「イスラム」とは、マルクスがルイ・ボナパルトブリュメール18日で述べた「過去の衣装を着て現れる」だ。ナショナリズムは宗教が死に意味を与えたその位置に座るのである。
イスラム国の成立根拠のアイデンティティはアラブのナショナリズムであって、当然ながら国家がいくつも分断されたアラブ人にとっては国家=ナショナリズムではなく、イスラム、というアイデンティティを過去から参照するしかないのである。ナショナリズムが宗教の代償であればそれは必ず「宗教性を帯びた感情の発露」として顕れるのである。
イスラム国がナショナリズム運動であることはゲルナーがナショナリズムを定義した「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と合致する。その定義からみれば日本の渡辺昇一は「日本の戦後の平和ボケ・ナショナリズム運動」の大家である。
だが、イスラム国は「オスマン・トルコ」を「過去の衣装」に加えてしまったので「多民族国家」を求めているのか、あらゆる民族を集めたがる。そこには奇妙 なことに「排外主義」はない。「排外主義」はないが、イスラム原理主義に従わなければ処罰する、という法の厳格性が存在する。
その法の厳格性が法に対し、拗ねた感情でしか生きていない「日本民族」が掲げる「過去の衣装」(天皇=)日本とは極めて非対称的であり、排外主義もそうだ。
「日本民族」とやらが「イスラム国」を非常に敵視するのはその「非対称性」ゆえであって、人質が殺されたことは「敵視」の理由の「言い訳」である。
なぜなら「日本民族」とやらも「イスラム国」と同様の「原理主義」が、だが、曖昧(そこがイスラム国との非対称でもある)に存在する「国家統一運動」をす でに「国家」があり日本国憲法が存在するのに「政府」主導で行なう、奇妙な狂気の国家であり、その狂気こそがイスラム国からみれば「侮辱したくなる」ナ ショナリズムである。
われわれ日本国民は「日本民族」の幻影から離れ、社会契約説に基づき、安倍首相の「イスラム国と戦う国に2億ドル援助」の責任を明確化し、そのことで退陣させることで「侮辱」から解かれるのである。
そして、「日本」もまた、明治から昭和前期はイスラム国とも比すべき
「宗教性を帯びた感情の発露」であるナショナリズムを基盤とした戦争国家だったのである。そのナショナリズムの基盤を支えた「宗教性」は国家神道というキリスト教から拝借した伊藤博文創作の「ガジェット」にすぎない。
現在、日本で進行している「日本」はその「戦前」の「
「宗教性を帯びた感情の発露」であるナショナリズムを基盤とした「戦争国家」の記号である。
とすれば、われわれ「日本国民」はその記号でしかない「日本」に癒やされてはいけない。