いまだに「歴史認識」という言葉の意味がわからない。その私のわからなさはこういうことだ。
例えばエノラ・ゲイ号が広島に原爆投下したという「事実」を「認識」するの「認識上」に違いがあるわけがない。それは原爆を肯定しようが否定しようが、事実は「エノラ・ゲイ号が広島に原爆投下した」という「認識」しかできない。当たり前だ。立場によって「歴史」の「認識」の差が出てくること自体、虚偽である。だから「歴史認識」というような論争があること自体、本当に日本国民は「歴史」を理解できているのか。まだ「神話」の世界に生きているのではないか、と私は不安になる。
 従軍慰安婦を巡って「認識」が食い違うのはこれがどう見ても「事実」を無視した「評価論争」をしているだけです。
いうまでもなく、従軍慰安婦は日本政府・軍が計画化し関与した国家犯罪であることは、「事実」であって、その「事実」に安倍首相のように「強制」はないだとか「人身売買」だとか言っても、歴史の先生がいれば、「安倍くん、君は私の話を訊いているのかね?なんども言っているが、従軍慰安婦は日本政府が関与したということは事実だ、君の意見で事実を変えてもらっては困る」というようなことです。
事実は「従軍慰安婦は日本政府・軍が関与した国家売春であるが、賃金を慰安婦に支払ってさえいない国家犯罪」である。
この事実に日本政府は謙虚に受け止め、アジア諸国にずっと謝罪しつづけなさい。
その態度が真摯に見えてくればアジア諸国は「許す」のだ。それまでは「謝罪」しなさい。
それが「道徳」だ。
「歴史修正主義者」が言う「認識」は「精神分析」でいうところの「否認」だ。「事実」を屈折してしか捉えることができない。それは「否認」だ。
その「否認」を行ない続ける限り、日本国家は沈むばかりだ。
 
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