思考するプロレタリアート日記

I am not Abe ちなみに、私がかつていた勤務先は、僕の父親が亡くなって、勤務先から誰も葬式に参加しないは、お見舞金もださないわ、電報は他人に書かせ、名前は自分名義で、電話してきていうには「俺の呼び名」を間違えるなよ、と自分のことしか言いません。最悪な勤務先です。 非正規だから「差別」しているんですよね?

カテゴリ: 外国人

上野千鶴子には、なぜ、人間である「労働力商品」が、移動してしまうのか、という根本的な問いがない。
東北から東京へ、九州から大阪・名古屋へ移動する「労働力」の調達の国境の外へのexpandが移民であり、現在、もうすでに日本で生活している外国人労働者である。
資本が国境を越えて活動する、ということは、資本に変化する剰余価値を生み出す労働力も、資本に伴い、国境を越える。
資本は海外へ生産拠点を作ったら、現地住民を労働力にする。その時点で、労働力は、国境を越えている。その関係において愛国もナショナリズムもない。
海外を各地につなぐ資本の労働力に対する需要、雇用の増加、などが、国境の外に存在する相対的労働人口が、まさに、市場の法則により、ブローカーに騙されながらも、自らの労働力の価格上昇のために、飛躍するのだ。
その飛躍を、国家による移民排斥では、防げない。
なぜなら労働力は、人間であり、人間は、生きていかなければならないからだ。
なぜ、上野千鶴子は、国を捨てる人間である「労働力」に寄り添えないのか。
日本国内で移民が大量に労働力として計画され、その計画に対し、国内の安定秩序を願う中産階級の「リベラル」が、移民計画を望まなくても、また、資本が移民計画を捨てても、日本の労働市場で、労働力商品の価格を上昇できることが確実であれば、国の思惑とは関係なく、「労働力」は国境を越境してやってくる。
そのことで国内に住む国民と海外から来た労働力である移民との間に軋轢があろうが、そんな軋轢を心配しても仕方がない。
その心配を杞憂と呼ぶ。
そして、当然、現在の英国のEU離脱は移民が原因とも言えるが、そう簡単な話ではない。
資本の格差が国家間にある限り、格差の上を目指し、自らの労働力の価格上昇のため、来るものは来る。
来るものは来るということに対し、今からあれこれ予測することを
「未来学」というたわいもないSFだ。
上野千鶴子は「未来学」を行っているにすぎない。
国内の若者、女性を低賃金労働力として消費した日本の資本は、海外からの労働力を消費目的で、移民を計画しているが、移民もまた労働力であり、市場では自由である。一見、資本が選ぶかのような議論が無前提に行われているが、まさに、自由な労働力は、自由に日本企業を判断し、選ぶ。
現在の日本企業に、わざわざ、国を捨ててまで、雇用されに来るだろうか。

いつまでも、日本人は上野千鶴子も含め、「見る・選別する」側に立てると考えるほうが甘い。
日本人もまた「見られ・選別される」いることに気づかなければならない。

世界は日本を相対化し続ける。

「これから」移民増加について上野千鶴子氏は予測たてるが、そもそももう移民が来ない、という選択肢もある。 日本に移民が大量に労働力として来日し、生活し、軋轢を予測するが、もう来ない、ということを上野氏は思いもよらなかったのだろうか。


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上野千鶴子の暴言

「日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。

移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。

客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。

主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。 」ここは上野千鶴子は暴言といっていい部類を示している。
なぜなら、すでに、日本には多数の外国人労働者が居住し、上野から多文化共生になじまない、とみなされる日本で懸命に生きているのだ。
これは上野は謝罪すべき暴言だ。

フィリピン人花嫁が1980年代後半の日本の農村に来て、離婚していなければ、すでに世代交代であり、ということは上野千鶴子の「日本は多文化共生に耐えられない」も何も、耐えている地域というか、乗り越えている家族もいるのだ。

街を注意深く見よう。
外国人が多数いることを。
上野千鶴子はいったい、街を歩いたことがあるのだろうか。
上野の考えでは国が移民を選ぶかのような言説だが、実際は、トランプが嫌うメキシコ不法移民のように、移民、つまり、人間が国を選ぶのだ。
上野千鶴子は本当に現実から見る視点もない。
頭が基本的に馬鹿の受験秀才だけではないのか。


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自民党というか、安倍自民党の、やたらな愛国連呼は、経団連に、向かって言っている、と、僕は見ています。
経営のトップが日本を見捨てていいのか、と世論を巻き込んで、経団連もろとも、日本国民の支持を拡大したい。
実際、経団連が、外資も含んだ愛国心なき企業家精神のかたまりであり、それが、日本経済の成長を弱めている、というのが、安倍の言いたいことなんだろう。
とみると、安倍がいい人のように見えてしまうが、実際、経団連以上に愛国心を押し付けられるのは、われわれ、一般の国民ですからね。だから、安倍が行う現在の経済政策も、愛国とカップリングです。
過剰な日本大好きは、経営者トップから「日本大好き」に意識を変えろ、という安倍晋三の要請ではあるが、だから過剰な極右旋風ではあるが、どうやら安倍晋三は経団連に負けたようである。
今後の安倍自民党は日本大好きブームを少し緩めるだろう。僕が考えるには、企業そのものが、特に日本を必要としていないことに安倍は気づき、企業トップから愛国を巻き起こし、自民党支持を高めるというアプローチをやめるだろう、と僕は予想します。
だが、国民には愛国を求める可能性は高い。
働き方改革も、愛国心溢れる働き方改革をわれわれ国民は、求められる。
安倍晋三の同一労働同一賃金、最低賃金あげる、内部留保を賃金に吐き出せ、も、愛国マーク付きですから、用心しないと、いつのまにか、海外の戦場になぜか、いる、ことになってしまいますからね。気をつけたいものです。

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というかね、明治維新以前は、藩にアイデンティティがあるから、日本人という主体が形成されたのは、明治以降、それでもいまだに、藩意識はあります。どう しても、方言は残る。今じゃないかな、初めて、「日本人」という主体の自意識がようやく作られたのは。平成の今、ようやく「日本人」はできあがった。つまりは、明治維新以前は、藩、村、町、という種族 に家族があったが、田舎の村なんて種族=家族です。現在は家族と日本という民族がダイレクトにつながった。最近の若い子に顕著です。それがネトウヨと、似 たような服を着て歩くその行動様式です。そして各地にイオンがある、日本のナショナリズムはイオンが作ったwイオンのショッピングモールのスタバでどこも かしこもカフェラテを飲む、そのカフェラテが「ナショナリズム」だ。
それを僕は、若い子の真似をして「やばあ」と指摘しておきます。
ファストファッションが日本人を作った。北海道の釧路と九州の小倉で「ユニクロ」を着て、たまには「スタバ」というその同じ行動こそが「日本人主体」の形成である。
そのような装置がないと、日本という記号が「強制」的に上から押し付けられる。それが特攻隊であり、靖国神社だが、それは、僕が考えるには、意外と今の若い子が素直に受け入れられるのは「日本人」だからであり、われわれはいまだ、藩ではだからないかな。
だから永遠のゼロのヒットとシンゴジラのヒットはわかる。それが初めての「日本映画」だからだ。
今までの日本映画は、松竹映画や、東映映画や、東宝映画や、山本薩男映画、とか岩波出身記録映画、とか、近代映画協会映画、とか極私的エロス映画、とか松竹ヌーヴェルバーグとか、そういう映画たちだったのだ。
小津安二郎の映画はそれはやはり「東京映画」なのだ。最も「東京物語」の老夫婦は尾道だが。
だったら黒沢明はなんだ。それは「アメリカ映画」じゃないですか。
だったら東映Vシネマは、それは、「自意識日本」主体に乗り遅れた東映映画という「藩の映画」ですね。
映画ではないが、一時期の野島伸司の脚本は、「日本人を作る機能」を果たしたはずです。

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加瀬もそうなんだけど、外国人コンプレックスの反転が「日本」にこだわるだけです。八木も加瀬も海外留学による挫折が、日本へ向かった。ホームシックでは ないのかな。海外挫折組のホームシック後遺症を生長の家が「癒した」。それが実は日本会議。「癒されて回復して威張った」それが加瀬と八木。
極度に、私たちは日本を知っている、それは、本当は、海外に向けていうところが、聞いてくれなかったのではないか。聞いても、そういう見方がある、で受け入れられないことを感じ、日本で威張りだした。それが、海外挫折組のホームシック後遺症における極右化だ。
これは、別に驚くことではない。海外には行ってないが、萩原朔太郎も、文学活動の上で海外挫折をし、日本回帰をした。萩原もボンボンだが、加瀬も八木もボンボンである。
ボンボンは自分がダメだった、ことを認めたくないのではないのかな。
それは極右だけではなく日本共産党もそうだけどね。自分がダメだったことを認めない。中核派もそう。加瀬や八木のようなエリートの劣等感による自分を日本理解者と模した社会攻撃は、ストーカー並みにしつこい。
男の嫉妬って、しつこいでしょ。そういう感じだよ。

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