その後、高野岩三郎、鈴木安蔵ら憲法研究会に白羽の矢がたち、現行憲法の素案ができ、GHQ民生局は、日本にデモクラシ―があった、と狂喜したのである。
そして憲法制定議会の過程で、社会党の議員が勤労の義務及び権利といった社会権を書きこむ。
ちなみにその却下された側の松本蒸治が、占領が終わってから、アメリカの押し付け憲法だ、と言いだす。
さらに、中曽根康弘も占領が終わってから改憲の歌を発表する。
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I am not Abe ちなみに、私がかつていた勤務先は、僕の父親が亡くなって、勤務先から誰も葬式に参加しないは、お見舞金もださないわ、電報は他人に書かせ、名前は自分名義で、電話してきていうには「俺の呼び名」を間違えるなよ、と自分のことしか言いません。最悪な勤務先です。 非正規だから「差別」しているんですよね?
■ (参考) (通称)沖縄メッセージ(昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」)
1947年9月に、昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え、ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したものである。 その文章の記録が残されている。
しかし、1946年11月には日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのであるが、それにも拘わらず、政府を通さずに、個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していたことになる。
ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。(注) その内容は次のようなものである。
筆者の意訳で概要説明する。
1947年9月20付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を、シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して、1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送っている。
尚、この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会った際に、シーボルトは、陸軍省の意見として、沖縄をアメリカが自由にするとし、国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。 (「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)文藝春秋 )
(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容) 1947年9月22日 標題:将来の琉球列島に関する天皇の考え 国務長官宛 拝啓 私は、1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は、 天皇のアドバイザーである寺崎が、彼の要望で私のオフィスを訪れてきて、彼と話した内容の要旨を記録したものです。 その内容は、日本の天皇は、沖縄や琉球列島のその他の島々へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを 希望しており、その要望は、疑うべくもなく、天皇自身にとって大いに利することになることに基づくものであるという ことがわかるのである。天皇は、また、これらの島々の米軍による占領の継続が、長期間の賃借契約の方式によること を思い描いている。天皇の意見によると、それによって、日本国民は、きっと、アメリカ合衆国には下心がないと納得 するようになり、アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるであろう。という ことである。 敬具 W.J.シーボルト
(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容) 1947年9月20日 マッカーサー元帥宛のメモ 天皇の顧問の寺崎英成が、将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。 寺崎は、天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。 天皇の考えは、そのような占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろうというもの。 天皇は、そのような行動は、広く日本国民に受け入れられると感じている。国民の間では、ロシアの脅威があり、また、 占領が終わった後に、左翼や右翼のグループの台頭もあり、かれらが事変を起こしかねないし、それをロシアが日本の 内政干渉のために利用する可能性もある。 天皇が更に考えるには、沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が、日本の主権は残した状態で、25年や50年間、 いや、更に長期間の賃借の形態に基づくものになるであろうということである。 天皇は、このような占領政策によって、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いように思わせるので あり、他の国、例えば、特にソ連や中国が同様な権利を要求することをそれによって止めさせることになるという。 手続きに関して寺崎が思うには、沖縄や琉球列島内の他の島における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国の 講和条約の一部にする方法よりも、むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。 寺崎が思うには、連合国との講和条約の一部にする場合は、かなり強制的な平和条約の様相になることが察しられ、将来、 日本人のことを同情的に解するなど危機的になるだろうと。 http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/law_war/okinawa_message.html
W.J.シーボルト
教育勅語の親を大事にしよう、とか、友達大事にしよう、とか、夫婦仲よくしよう、とかわざわざ、勅令で書かねばならんものなのか。
そこが、まず、私には理解不能。
こういう家庭道徳のような文が挟まれる背景は、
・教育勅語が発布される前は、日本の大衆は、親を大事にしよう、とか、友達大事にしよう、とか、夫婦仲よくしよう、なんてものが思いも及ばなかった。だから天皇が教えてやる、と。
・教育勅語が発布される前は、日本の大衆は、親を大事にしよう、とか、友達大事にしよう、とか、夫婦仲よくしよう、なんてものは思いも及んだが、君たち、やっているかあ、確認確認、という天皇の事後確認
この2つの状況が考えられる。
そして、教育勅語の原文を当時の庶民は、果たして読めたのだろうか。もしかして旧武士だけで内輪受けしていただけじゃないのか。
そもそもそれは、日本全国津々浦々へ渡ったのか、謎の勅令である。
江戸時代の日本人の識字率は英国の学者・ドーアによると、男子40パーセント女子10パーセントである。これは、実は西洋諸国より高い数字だが、だとしても、その数字がそのまま明治へ移行すれば日本男子の40パーセント女子の10パーセントしか読めない、というか、士族や華族しか読んでいないのではないか、という疑惑すら持たれる教育勅語である。
大正時代でさえ、君が代は、日本の庶民から見れば、それは皇室の歌だからわしら関係ない、という持論でした。
支配階級は教育勅語イデオロギーを庶民に押し付けたいが、実は庶民はそれを読めなかったのかもしれない。
よく、日本大好きっこが日本の識字率は高い、と誇りますが、勝海舟のおやじの勝小吉は文盲でした。勝小吉はれっきとした武士です。武士も下級では文盲だったのだ。もっとも一念発起して勝小吉は文の読み書きができるようになり、自伝を出しました。
さらに、戦争中、赤紙が来て、抵抗したのは大阪の商人ですが、当然、家の働き手が失われるからです。そういうことからみて、実は教育勅語は支配階級だけが内輪で盛り上がっただけのイケてない勅令ではないのか。
だいたい、戦争へ徴用するのに教育勅語の教えなんかいらないからね、徴兵制があったわけだから。
本当に教育勅語は戦前、機能していたのか。
それは、すでに、公然の「廃止状態」ではなかったのではないか。
つまり、日本の支配力は明治も今の安倍政権も「幼稚」ではないでしょうか。
よく、日共系左翼が、日本を戦前に戻すな、とか騒ぐが、大正時代は君が代は皇室の歌だから庶民は関係ない、という意見が大勢を占め、第二次世界大戦中は、労働者は治安維持法がありながらも、使用者にプッツンきたらストライキを即製でやってしまうわ、(日共系左翼の講座派・羽仁五郎がそれを絶賛しています)大阪の商人は、戦争へ息子を出すのを嫌がるわ、そして、犯罪者は監獄から戦場へ行かされるのを抵抗するわ、という様々な行動をみるからに、実は、当時の日本人は今の日本人より内面は軍国主義化していなかったのではないか。
私は、教育勅語は、実は、士族と華族だけで内輪受けで盛り上がっていただけではないか、と見ます。さらには、士族は、山県なんか下級武士じゃねえかよ、のくせになにが教育勅語だ、ちゃんちゃらおかしいわ、と馬鹿にしていたのではないか、とさえ勘ぐります。
今のようにネットもなければ通信手段が発達していない明治時代に、山奥の山村まで教育勅語なんか伝わったでしょうか。 教育勅語は、今の安倍政権が内輪受けで閣議決定するような、内輪受けで終わったのではないでしょうか。 当時の庶民は、まず、食糧が優先だから、友と仲よくとか親孝行とか夫婦仲よくなんて言っていられない。まだまだ間引き、夜這いがあった時代ですよ。
尋常小学校で校長が教育勅語を読み上げるけど、当時、学校などいくやつは、ブルジョアと相場が決まっていましたからね。つまり、校長の読み上げすらしらない児童もいたのだ。
なにしろ、日本の農村は戦後自称民主主義教育の時代でさえも、農繁期は、農家の息子は、農作業で学校にこないことが、許可されていた。これが庶民の実態ですね。日共系左翼はブルジョアだから知らないんですよ。
僕が推測するには、日本の庶民の多くは、貧困で、教育勅語どころではない、そんなもん犬のエサにでもくれてやれ、ぐらいではなかったのではないか。
山県有朋もくだらねえ訓示の教育勅語の前にどうしたら、東北の飢餓を減らせるとか実践的なことしなさい、って話。
天皇のために死ぬ前に、飢餓があったからね。それが理由で2.26クーデターも起きているし、その飢餓を口実に満州侵略が正当化された。宮沢賢治も満州侵略には大賛成していた。
教育勅語が生まれた背景は、一般庶民をいかに武士化するか、つまり、江戸時代は、忠誠なる封建的価値観は武士階級にしか、浸透していなかったのではないか。一般庶民は、武士と別の価値観で生きていた。家や藩のために死ぬのは、武士。だが、一般庶民は、家や藩のために死ぬ、とか、全く考えすらない。でないと、教育勅語の内容の説明がつかない。明治維新を迎え、対外的に帝国主義的膨張を準備する日本は、戦争のマインドを庶民に伝える必要があり、教育勅語が生まれた、としか、わたしには考えられない。
教育勅語の最後の文は深読みすれば、今まで武士だけが藩のため家のため死ぬ覚悟があり切腹がありましたが明治維新になり四民平等であるので庶民のあなたがたにも死ぬ覚悟、切腹を命じます、と深読みできる。
明治維新を迎えモノだけ近代化を図るが、精神的価値観を武士階級のイデオロギーを庶民に啓蒙した。臣民とは、天皇のために死ぬ武士、である、と。
だが、その武士は、永遠に下級武士である。
臣民を下級武士のような状態へ囲い込むその教育勅語を発案したのは下級武士の山県有朋であり、山県が下級武士から支配者へ転じた下級武士時代の恨みが教育勅語に結晶した。
その恨みは、彼が誇る勲章にシンボル化された。
教育勅語とは、山県有朋のルサンチマンの血判書である。
それが、近代日本を戦争国家にさせた支配者の日本イデオロギーである。
教育勅語とは、主君ー武士、というモデルを国家規模で遂行したにすぎない。
(それゆえ、内村鑑三は忠誠するべき主君を江戸時代崩壊以降、イエスへ求めた。)